カテゴリー
富士見町 観る

井戸尻史跡公園|縄文時代の狩猟採集が覆される|富士見町境

井戸尻遺跡(いどじりいせき)は、縄文時代中期を中心とする集落遺跡です。
八ヶ岳からの湧水が多いなど人が暮らすには適した場所のため遺跡がたくさんある地域です。

1966年(昭和41年)に国の史跡に指定され、井戸尻史跡公園として一般の人にも見学や利用されるようになっています。
公園周囲の田んぼに蓮やアヤメなどが育てられており、花を楽しむ場所としても人気が高くなっています。

1966年(昭和41年)に国の史跡に指定され、周辺は「井戸尻史跡公園」として整備された。また1975年(昭和50年)、曽利遺跡の第4号住居址から出土した7点の一括土器が、縄文時代の遺物として、県宝に指定されている。

諏訪市出身の考古学者藤森栄一は井戸尻遺跡はじめ中央高地の縄文遺跡研究から「縄文農耕」論を唱え、狩猟採集が主体とされていた縄文時代の文化構成に異議を唱えたことで知られる。藤森はドングリやクリなどの植物質食材を主とする社会は、原始的な焼畑式農耕に移行していくと考えた。しかし、農耕の存在をはっきりと証明する栽培植物が検出されなかった。近年は古環境の復元や栽培農耕の起源に関する研究が進捗し、縄文農耕論も再び注目を集めている。

現在は井戸尻考古館(長野県諏訪郡富士見町境7053)があり、出土品を展示している。出土品の中でも長野県宝に指定された「水煙渦巻文深鉢」(長野県宝)は昭和38年にパリで開催された「日本古美術展」に出陳されており、1972年(昭和47年)には、郵便はがきの料額印面の意匠に採用された。wikipediaより

住所:長野県諏訪郡富士見町境7053
電話:0266-64-2044
[googlemap lat=”35.8773236949951″ lng=”138.27890396118164″ align=”undefined” width=”575px” height=”300px” zoom=”13″ type=”G_NORMAL_MAP”]長野県諏訪郡富士見町境7053[/googlemap]
井戸尻遺跡の全景

八ヶ岳山麓ということで、かなり自然に囲まれた感じの場所にあります。

井戸尻史跡公園の案内

どこまでが公園なのか、農地なのか分りにくいので案内がありました。

自動車の通行について

1台がやっと通れる道ですので、確かに見学やはやめた方がいいかもしれません。

水車小屋

動いていましたが、小屋の中は見学できませんでした。

水車小屋

縄文時代にはなかったものですが、昔の日本という感じです。

縄文時代に栽培されていたというものでしょうか、たくさんの物が栽培されてました。

池が広がっています

アヤメ

ノハナショウブ

古代米

スイレン

スイレンの葉ばビッシリ

カエルがたくさんいそう

ハス(蓮)

白い蓮(ハス)の花

白蓮

埼玉蓮

コウホネ

コウホネの花

ベンチ

所々にあるので、疲れた方にはおススメです。
また樹脂製なので「ベンチがあるけど汚くて使えない」ということも少なそう。

住居の遺跡

竪穴式住居が復活しています。

ここに家があったということ

丸く地面が掘り込まれています。なんだか日用大工で作れそうな気になってきます。

史跡井戸尻遺跡の説明書き

7千年前に住み始めたということで、12件の竪穴式住居があったということです。

竪穴式住居の外観

屋根と外壁が一体となっています、現代ではありえませんね。

竪穴式住居の入口

上の部分に注意という標識があります。

竪穴式住居の内部

意外と内部は広いですね。

竪穴式住居の中にあった囲炉裏

昔の煮炊きはこんな感じの場所なんですね。

ひょうたんがありました

屋根の頭頂部に光が入ってきてます

超低気密住宅ですが、とても室内は涼しいです。

内部から入口を

灯りは焚き火のほかはこれですよね。

入口は小さいですね

住居のあった場所に立て札がありました

こちらにもの立て札が

史跡指定の石碑

昭和41年に国から指定を受けた時に作ったものでしょうか。

ここにも御柱が

さすが御柱地域ですね。

簡易トイレがありました

がんばれば利用できますが、まず無理です・・・

遠くの方まで蓮です

井戸尻考古館の入口看板

公園の上にあります。

井戸尻考古館外観

発掘されたものが展示されているそうです。こちらも合わせて見学してみてください。

庭に石の展示もありました

よく小学校の庭にもありましたね。石の展示です。

竪穴式住居に自由に入ることができる遺跡です。富士見に出掛けたら行ってみてください。

カテゴリー
松本市 観る

弘法山古墳|桜の時期は大賑わい冬の弘法山|松本市並柳

松本市南西部にあたる中山(弘法山、標高650m)にある弘法山古墳をご紹介します。
JR南松本駅から徒歩約15分松本市並柳の小高い丘にあります。

規模 全長66メートル・築造年代 3世紀末~4世紀初頭(東日本最古級の前方後方墳)・被葬者 不明・出土品 四獣鏡、鉄剣、勾玉など・史跡指定 昭和51年(1976年)国指定。

出土されたものは松本市中山の松本市立考古博物館に展示されています。

春には古墳復元を記念して山全体に植樹された数千本の桜が麓から上に向かって咲きそろいピンク色に染まります。その頃は花見客で賑わいます。頂上はとても見晴らしが良く、松本平やアルプスが見渡せる場所でもあります。

長野県松本市並柳2丁目12−13
[googlemap lat=”36.21286569954948″ lng=”137.98303484916687″ width=”575px” height=”300px” zoom=”13″ type=”G_NORMAL_MAP”]36.212866,137.983035[/googlemap]
南松本の出川橋から

中央に白っぽくコブが2つ見えるのが古墳跡です。

近くからアップの頂上

弘法山頂上です。手前は桜の樹が覆ってます。

北側から

弘法山全景です。お椀を伏せたようなこんもりとした丘になってます。

弘法山の北側から登ります

小春日和の日に撮影したのですが一輪の桜が出迎えてくれました。種類は何でしょう。これから咲きそうな蕾もついていました。気持ちも晴れやかになりましたので頂上をめざします。

泉小太郎像

日本の民話の中で松本・安曇地方に語り伝えられている開拓、治水の伝説の主人公の像。

北側の登り口

この時期は落ち葉などすっかり綺麗にかたづけられて清清としています。枯葉の匂いもします。

弘法山古墳への道

たて看板、標識がありゆったりとした道を登ります。

史跡案内板

貴重な古墳であるため、国の史跡指定を受けて整備保存されました、と書かれています。

桜の樹林

この様に山全体に桜が植樹されています。静かすぎて寂しい感じもしますが太古を偲ぶにはこんな日がぴったりでした。

途中の標識

あずまや方面は下りになり車で来られた方の入り口になります。弘法山古墳方面にすすんでいきます。

頂上付近

ゆっくり歩いて10分位で頂上です。標識に前方部・後方部とありますのでまず、前方部に行ってみます。

古墳前方部横から見た景色

松本市内、北アルプス、桜の樹が。

古墳後方部から見た景色

どこまでも桜の樹が続いてます。向こう側の山は別の山です。

頂上から

頂上古墳から撮影です。水平線のようになってますが、手前の石が弘法山古墳の埋葬施設です。松本市内、北アルプス、とこんな感じで景色を楽しめます。
晴れた日には最高の場所になります。

西側から

南松本方面です。手前も桜の樹です。お天気が良ければ上高地方面、乗鞍岳も見えます。

東側から

田畑が広がり東山が見えます。この角度からは見えませんがその後ろには美ヶ原があります。

頂上の古墳案内板

頂上にあります。古墳の方角が示されています。また次の様な事が書いてありました。
中央の石で表示した部分が埋葬施設です。この竪穴式石室からは、遺体と共に埋葬された、半三角縁四獣文鏡、銅けん、鉄けん、鉄斧、ガラス小玉などが多数発見されました。また、埋葬後行われた「儀式」のため石室の上部には赤く塗られて底に穴
をあけた壷や高杯、小型高杯、手焙形土器と呼ばれる特殊な土器が発見されました。

古墳前方から

ここが一番前方になります。頂上より少し下がった場所です。
見晴らしの良い場所です。

古墳前方から頂上を

頂上の埋葬施設をみたところです。

桜樹林

今の時期は殺風景ですが、桜が咲く時期はそれは見事ですよ。
今年は是非、弘法山に足をはこんでみてください。

古墳の案内板

かたち、大きさ、つくられた時期、埋葬施設の案内です。

あずまや

一休みできる、あずまやです。近くの桜の樹には「そめいよしの」と木の看板がついていました。

あずまやアップ

景観とマッチした木の造りのあずまやです。お弁当を持ってきてゆっくりとできる空間ですね。

地名変更の碑

旧地名(松本市出川字丸山1000番地)新地名(松本市並柳2丁目1000番地)平成16年3月吉日ときざまれています。

駐車場

お車で来られた方はこちらに車を置いてから登りましょう。

しののめのみち看板

この地が「しののめのみち」沿いにあります。

南側入口標示

古墳の案内板と入口がわかりやすく整備されてます。

南側入口

古墳の案内板と入口がわかりやすく整備されてます。

石の看板と標識

石に弘法山古墳と刻まれています。この場所から出土された石なのでしょうか?

南側登り

駐車場側からの登り口はこんな感じです。ゆるやかな登りですので小さな子供さん連れでも大丈夫ですよ。

考古博物館への信号

弘法山古墳から南に車で3~4分ぐらいのところです。
中山小学校前の信号を右折です。

松本市立考古博物館

こちらに県宝指定を受けた弘法山古墳の鏡や玉などの出土品が、また全国屈指の出土量となったエリ遺跡の土製耳飾は特に注目されるようです。

博物館入り口

博物館入り口には古代の住居などが復元されています。

中山遺跡マップ

縄文時代の家

炉のある家です。土間の部分が低く掘られていて炉のある家との紹介です。中には入れませんでしたが暖かそうな感じがしました。

石囲い炉

縄文中期(4000年~5000年くらい前)の炉です。
本来は竪穴住居の中央に設置され煮炊きをしたり暖をとったりする施設として使われていました。これらも出土されたもののようです。

博物館入り口

松本市域の考古学の資料がそろっているそうです。古代のロマンに触れてみませんか。

カテゴリー
伊那市 観る

進徳館|万延元年開校の現存する藩校|伊那市高遠

進徳館は高遠城址公園の横にある史跡です。 高遠藩主 内藤頼直が1860年3月創設した藩学校です。

頼直が、岡野小平治を現在でいう学長にし、中村元起・海野幸成を先生にすることで現在の理数から戦争を生徒へ教えていた学校です。
その建物が当時の姿で残っているということが珍しいため、国指定史跡となっています。

桜を見に来たら、立ち寄ってもいいかもしれません。入場は無料です。
[googlemap lat=”35.83426498658587″ lng=”138.06334555149078″ width=”575px” height=”300px” zoom=”14″ type=”G_NORMAL_MAP”]長野県伊那市高遠町東高遠2074[/googlemap]

道路から見た進徳館

進徳館と書かれた石があります。

階段から門

この階段を登り、門をくぐれば進徳館です。さすがに年期の入った石階段という感じがします。
ちなみにこの真後ろが高遠城址公園になります。

玄関風景

歴史が止まっています、石畳の先に玄関があります。
もちろん中へ入ることはできません。竹の柵で止められています。

説明書き

かなり難しい文章というか言い回しです。

国指定史跡
進徳館(指定 昭和48年5月26日)

 進徳館は高遠藩主内藤頼直が前藩主頼寧の意思を受け継ぎ、藩士中村元起の熱望により大学頭林復斎の助言を得て万延元年(1860年)3月郭内三之丸に内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて創設した藩学校である。
 頼直が「興国の基礎は藩士を養成するにあり、藩士を養成するには文武を奨励するより先なるはなし。」と藩学校設立の趣意を説き、老職岡野小平治を文武総裁に任じ、中村元起、海野幸成を文学師範に命じて 和学、漢学その他筆学、兵学、弓術、馬術、槍術、剣術、砲術、柔術、後に洋学を講ぜしめた。優秀なる教授を網羅して、進歩的な教育が行われ、多くの偉材を育成し、特に教育界に中堅人物を輩出した。
 旧進徳館の主要建物は八棟造り、平家茅葺きで現存するものは前通りの東西二棟と玄関及び表門で、その他は明治4年総裁、学監教授方師範詰所、教場、生徒控所等を含んだ講堂で東棟は生徒控所であった。
 進徳館は松代文武学校と共に信濃藩学中その遺構を最もよく在するもので貴重な史跡である。

音声案内

進徳館のどこに居ても聞こえる音声放送が流れ始めます。
これは間違えなく押した方が良いと思います。

縁側

縁側から室内を観ることができます。裏庭も見えてます。

五聖像の説明書き

孔子廟と五聖像
 五聖像とは、儒学の祖である孔子と、孔子の高弟で四賢人と言われる孟子、曽子、顔子、子思(子思子)を彫刻して祀った像のことです。
 江戸時代、儒学を教えた幕府直営の昌平坂学問所(現:東京都文京区湯島聖堂)や各地の藩校では、敷地内に廟を設け孔子を祀っていました。進徳館でも、開校から2年後の文久2年(1862)、辰野村(現:辰野町)の小沢伝十が孔子像を献上し、館内に聖廟が設けられました。さらに3年後の元治2年(1865)、北福地村(現:伊那市富県)の那須隆達ら4名の申し出により、四賢人の像が献上されました。これらの像は昌平坂学問所の大聖殿に祀られていた像にならったもので、江戸の絵師・野口幽谷が模写した絵を原図として、松川村(現:松川町)などの彫刻師が桂の材を用いて彫り上げたものでした。
 元治2年2月中旬、五聖像がそろって初めての釈奠の日(孔子を祀る典礼)には、藩主(代拝)、藩重巨、職員、生徒らが参加して盛大な式典が行われました。五聖像の座位は、孔子の生誕地・中国山東省曲阜にある孔子廟内大成殿の座位に従っています。
 明治時代になり進徳館が廃校となった後も、五聖像は大切に守られてきましたが、経年による傷みから保護するため、平成9年(1997)に高遠町歴史博物館へ収蔵され、平成14年(2002)には伊那市有形文化財(彫刻)に指定されてました。

祀られている五聖像

説明書きにもありますが、レプリカです。本物は近くの高遠歴史博物館にあります。

庭からの眺め

日本庭園というよりは、和風の庭って感じです。微妙に落ち着く感じがします。

茅葺き屋根の断面

かなり厚みのある茅葺きになっています。これで、雨風が防げるとはすごいものですね。
伊那地域でもこれだけキレイな茅葺きを見ることが出来るのは少ないのではないでしょうか。

茅葺きから湯気

この日は、朝方冷えました。陽が当たる場所からは湯気が上り、幻想的です。

裏庭から

進徳館は周囲をすべて回ることができます。裏側は、各部屋と建物の構造や建材について説明を見ることができます。

裏側から玄関

裏庭からも障子が開いていれば、玄関、門を見通すことができます。
何かの配慮でしょうか。

火を使っていた部屋

煙臭いというか、燻製の匂いがする部屋がありました。ここは火を使ったということで、天井もありません。

使われていた建材等の説明「釘」

和釘:江戸時代以前に用いられていた角釘で、物入れの小舞を止められるために再利用されていました。
輸入釘:明治初期に頻用され、付属棟の建築年代決定の根拠となりました。釘頭の下が四角い形をしています。
現在の釘

土壁に使われていた材料を紹介

紙苆・藁苆・苆・消石灰・黄土・本漆喰

進徳館付属棟の杮葺屋根の説明

現在は、鉄板が被せられていますが当時の杮葺(こけらぶき)について現物と写真で説明をしています。

土壁の説明

土壁の構造を大変分かりやすく紹介していました。
層別にも現物があるので、土壁研究中の人は一度訪れて見てください。

進徳館の構造について

建物全体の構造に付いて説明もありました。

現在パワー

さすがに当時は無かった、消防設備とセコムです。
進徳館内部に入ろうとすると、「これ以上は入らないでください」と音声で注意されてます。気付きにくいのですがセンサーだらけです。