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川中島の戦い|武田信玄、上杉謙信のお決まりのポーズ像|長野市川中島

武田信玄と上杉謙信の戦いが行われた川中島ですが、当時武田の本陣が置かれた場所が現在の八幡原史跡公園です。
この一角に、当時の本陣を再現した銅像があり観光名所となっています。

住所:長野県長野市小島田町
電話:026-286-5526
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武田・上杉一騎打ちの地

川中島大合戦図

赤が武田、青が上杉軍で紹介されています。

信玄、謙信が戦った場所へ

途中にある、田中月亀翁父子の歌碑

首塚

    この塚は以前は屍塚と呼ばれ、一五六一(永禄四)年九月十日の戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(六千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。

    これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。このことが乱世に咲いた美学と褒め称えられ、「敵に塩を送る」という言葉が生まれたといわれている。

    ここから東南へ約百八十mのところにも同じく大きな首塚がある。昔はこの付近にいくつもの首塚があったが、現存する大きな塚はこの二つだけであり、小さな塚は各所に点在している。

このとき塩を運んだ牛をつなぎ止めていた石がいまでも松本の市街地になります。

奥の方に戦う2人がありました。

いやいや、お決まりのポーズですね。

風林火山の旗説明書き

    武田軍の軍旗であるこの旗は、別名「孫子」の旗ともいわれ、もともと鮮麗な紺色の絹布に金泥で書いたもので、字句は兵法の聖典「孫子」の一節で、武田氏の菩提寺恵林寺の禅僧快川招喜の筆になるものである。

    「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」 これは合戦にのぞみ、軍隊とはかくあるべきことを教えたもので、孫子の研究者として戦国時代の最高峰といわれた信玄の軍隊運用術でもあった。

    武田軍の軍旗としては、このほかに「南無諏方南宮法性上下大明神」の旗があり、「風林火山」の旗と共に武田軍の象徴である。

上杉謙信

当時32歳だったらしいです。さすが若いだけあり馬の上から攻撃!

武田信玄

当時41歳ですが、銅像からは50歳代の貫禄があります!

等身大以上のサイズだと思います。

    ここ八幡原史跡公園は、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで武田信玄の本陣がおかれた場所とされています。

    信玄は、高坂昌信(春日虎綱)率いる別動隊を、上杉鎌信が籠る妻女山に向かわせ、別働隊に背後を突かれて追われてくる上杉軍を挟み撃ちにするため、この八幡原に本陣を敷いて待ち構えていました。後世、啄木鳥戦法と呼ばれるこの作戦は、大河ドラマ「風林火山」の主人公・山本勘助の発案であったとされています。しかし、信玄の動きを見抜いた謙信は、夜陰に紛れていち早く妻女山を下ったため、9月10日朝、信玄の本隊は別働隊の到着を待たずに上杉軍との戦端を開きます。

    激戦のさなか、謙信が信玄の本陣に攻め込み、信玄に向かって三太刃斬りつけ、信玄は床机にすわったまま軍配でそれを受けたとされる「信玄・謙信一騎討ち」の伝説もこの戦いで生まれました。

本陣の裏側

まったく絵になりません。

真裏に東屋がありました

安在所

    この建物は、明治三十五年五月二十二日皇太子嘉仁親王殿下(後の大正天皇)がこの歴史的景勝地八幡原の史蹟を御見学の為行啓され(参道右手に石垣に囲まれた二本の松はその折、殿下が植えられたもの)、その後も県内外より史蹟見学者が多数訪れ、湯茶接待を行うための休憩所(二間半四方丸木堀立板葺)として使用された建物址である。

川中島の戦いとは関係がなさそうですね。

本陣前の広場

たくさんの方が同時に観ることもできますし、集合写真もいけます。

案内をしてくれる人の旗

無料案内の方がこれを持ちながら案内をしてもらえるということですね。

地元の人でも普段はなかなか寄ることのない、信玄と謙信の戦いの場ですが公園としていろいろと整備されているので、意外と楽しめる場所です。ぜひお休みの日にどうぞ。

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川中島古戦場八幡社|八幡原史跡公園にある神社|長野市川中島

長野インターからすぐ側、八幡原史跡公園内にある、八幡社。
川中島の決戦が行われた場所であり、神社のほかに決戦から伝わるものが展示されています。

住所:長野県長野市小島田町
電話:026-286-5526
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途中に周遊マップがあります、川中島の戦いめぐりの参考にどうぞ。

●諸角豊後守の墓
武田方の侍大将。史料では苗字を室往と自署する。永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは前線右翼を担当して奮戦したが戦死した。

●桑山茂見の墓
武田方の侍武将。主人である小笠原長詮の身代わりとなって戦死したとされる。その遺体を埋葬した塚。

●胴合橋
山本勘助の討ち死に後、その家来が上杉軍から勘助の首を奪い返し首と胴体をつなぎ合わせたところと伝えられる橋。

●山本勘助の墓
武田方軍師 山本勘助の墓。第四次川中島の戦いで「きつつき戦法」の失敗から責任を感じて敵陣に突撃して討ち死にしたと言われている。

●典厩寺(川中島典厩寺記念館)
川中島の合戦に関する博物館、武田信玄の弟信繁の兜などを展示。日本一大きいえんま大王像も。
典厩寺はもとは鶴巣寺(かくそうじ)と号し、合戦から60年後の承応3年(1654)に松代(まつしろ)藩主(海津城主)の真田信之(さなだ・のぶゆき)が武田典厩の名をとって寺号を典厩寺と改め、信繁の菩提と武田・上杉両軍の戦死者を弔った。

●松代城(海津)
1560年(永禄3年)武田信玄が上杉謙信との決戦に備え、山本勘助に命じて築かせた城。

●妻女山
第四次川中島の戦いの際の上杉軍の本陣。眼下には武田軍の拠点、海津城を見下ろす展望台からの夕焼けは現像的。

●勘助宮路地
勘助が討ち死にしたとされるこの地に建っていた諏訪社(勘助宮)跡地。

など色々ある感じです。

川中島八幡社の鳥居

以外と小ぶりの鳥居です。

八幡社

川中島古戦場八幡原の説明書き

説明内容

水道仕様になっている

両際の炎がおもちゃ

少し安っぽい感じが出てますね

旧本殿

これが昔からの本殿ということです。かなり歴史を感じることができます。

旧本殿の後ろには大きなケヤキ

執念の石

執念の石説明書き

    武田・上杉両軍三万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅が、傍にあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突きだした。

    苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上ってその場を狂奔し去ったため、信玄は危く虎口を免れることができた。

    一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍にあったこの石を槍で突き通したといわれる。

これが執念の石

執念の石にある、執念の穴

ん~ん~、槍で一刺し・・・、違うなこれは。

執念の石でした

現在の本殿

昔の本殿とは違い、立派な神社になってます。

かなりシールが貼られています

本殿右に社務所がありました

ここではおみくじやお守りなど売ってました。

逆槐(さかさえんじゆ)

    山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄四年(一五六))九月九日夜、ここ八幡原に上杉軍狭撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいた。
    このとき土塁の土どめに自生の槐の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約四百年を経てこの巨木に成長したものと伝えられる。
    周囲に低い土塁のあとが見えるのは、信玄本陣を示す桝形陣形跡である。

三太刀七太刀乃跡の碑

三太刀七太刀乃跡の説明書き

    永禄四年(一五六一)九月十日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。上杉謙信は紺糸絨の鎧に萌黄緞子の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生に跨がり戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。

    この時の武田信玄は諏訪法性の兜、黒糸絨の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。

社務所の横に瓦

どこのものだろう?

川中島の合戦で使っていた軍配らしいです

公園内の散歩することもおススメです。

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八幡原史跡公園|信玄、謙信川中島の戦いで有名な公園|長野市川中島

武田信玄と上杉謙信の戦いで有名な川中島の戦いは全部で4回ありました。

最後となる第四次合戦が永禄4年(1561年)に行われた場所です。
現在は、八幡原史跡公園として整備されています。

公園で散歩などもできるほか、売店やお土産売り場、飲食店、トイレなどがあり観光地となっています。ちょうど長野インターを降りてすぐの場所と言うこともあり、道の駅っぽいですね。

元々は畑や田んぼだったらしいのですが、長野市で土地を買い上げて公園として整備をしたということです。

住所:長野県長野市小島田町
電話:026-286-5526
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広い駐車場です、観光用の大型バス駐車場もあります。

午後5時に駐車場は閉鎖

午後5時には駐車場が閉鎖ということですので、あまり遅くまでは遊んでいることはできなそう。

とにかく広いです

軽食からがっつりまで行くことができます

レトロな感じの食堂です

主に喫煙者向けでしょうか

公衆トイレはキレイでした

そばの専門店もあります

団体説明無料案内所

団体でお越しの方はここでお願いをしてみてください。



かなり安いと思います、試食をもらいましたが良かったです。

かなりでかいにんにく

長野氏は産地です

やまといもは写真にも書いてありますが、ねばりが強いということです。

農産物の販売店が並んでいました

もともとこの地で農産物を生産されていた方々のお店です。
土地の買い上げ条件として店の出店が条件だったそうです。
ただ、みんな年齢の関係から店が少なくなってしまったということです。

2010年流行の食べるラー油のきのこタイプがありました

小川がありましたが、ここは遊べそうもありません

橋を渡ると八幡社

池が見えてきました

かなり立派な池

遊ぶことは難しいですね、見て楽しむ系です。

公園林の散歩道

水道

長野市野外彫刻賞受賞作品

パラボラアンテナっぽい

芝の丘があります

かなり広いですが、犬は禁止になってました。

川があります

ステージも芝広場にありました

水道3つ口

ドでかい銅像がありました。

佐久間象山先生でした、というか誰?

    文化8年(1811年)2月28日生まれ、信濃松代藩士・佐久間一学の長男。
    門弟には前述の吉田松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙(慶應義塾の前身である蘭学塾を開設した人物)、加藤弘之など、後の日本を担う人物が多数いた。

    象山が登場する作品
    『花の生涯』(1963年 NHK大河ドラマ、演者:広瀬康治)
    『勝海舟』(1974年 NHK大河ドラマ、演者:米倉斉加年)
    『花神』(1977年 NHK大河ドラマ、演者:南原宏治)
    『勝海舟』(1990年 日本テレビ、演者:上岡龍太郎)
    『幕末高校生』(1994年 フジテレビ、演者:石橋蓮司)
    『父子鷹』(1994年 日本テレビ、演者:磯部勉)
    『徳川慶喜』(1998年 NHK大河ドラマ、演者:秋間登)
    『新選組!』(2004年 NHK大河ドラマ、演者:石坂浩二)
    Wikipediaより

かなり有名な方の銅像です。

さて台座です。

知有繋五世界しめせ象山の志
平成2年に長野市長だった塚田氏のコメントですね。

台座の裏面

象山佐久間大先生
この銅像を寄贈された平和地所株式会社会長のコメント。

彫刻家富永直樹の作ということです

関係者一覧

観光で来られる方はもちろん、地元の人でも使えそうな公園です。