長野インターからすぐ側、八幡原史跡公園内にある、八幡社。
川中島の決戦が行われた場所であり、神社のほかに決戦から伝わるものが展示されています。
住所:長野県長野市小島田町
電話:026-286-5526
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途中に周遊マップがあります、川中島の戦いめぐりの参考にどうぞ。
●諸角豊後守の墓
武田方の侍大将。史料では苗字を室往と自署する。永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは前線右翼を担当して奮戦したが戦死した。
●桑山茂見の墓
武田方の侍武将。主人である小笠原長詮の身代わりとなって戦死したとされる。その遺体を埋葬した塚。
●胴合橋
山本勘助の討ち死に後、その家来が上杉軍から勘助の首を奪い返し首と胴体をつなぎ合わせたところと伝えられる橋。
●山本勘助の墓
武田方軍師 山本勘助の墓。第四次川中島の戦いで「きつつき戦法」の失敗から責任を感じて敵陣に突撃して討ち死にしたと言われている。
●典厩寺(川中島典厩寺記念館)
川中島の合戦に関する博物館、武田信玄の弟信繁の兜などを展示。日本一大きいえんま大王像も。
典厩寺はもとは鶴巣寺(かくそうじ)と号し、合戦から60年後の承応3年(1654)に松代(まつしろ)藩主(海津城主)の真田信之(さなだ・のぶゆき)が武田典厩の名をとって寺号を典厩寺と改め、信繁の菩提と武田・上杉両軍の戦死者を弔った。
●松代城(海津)
1560年(永禄3年)武田信玄が上杉謙信との決戦に備え、山本勘助に命じて築かせた城。
●妻女山
第四次川中島の戦いの際の上杉軍の本陣。眼下には武田軍の拠点、海津城を見下ろす展望台からの夕焼けは現像的。
●勘助宮路地
勘助が討ち死にしたとされるこの地に建っていた諏訪社(勘助宮)跡地。
など色々ある感じです。
旧本殿
これが昔からの本殿ということです。かなり歴史を感じることができます。
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武田・上杉両軍三万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅が、傍にあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突きだした。
苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上ってその場を狂奔し去ったため、信玄は危く虎口を免れることができた。
一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍にあったこの石を槍で突き通したといわれる。
執念の石にある、執念の穴
ん~ん~、槍で一刺し・・・、違うなこれは。
本殿右に社務所がありました
ここではおみくじやお守りなど売ってました。
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山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄四年(一五六))九月九日夜、ここ八幡原に上杉軍狭撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいた。
このとき土塁の土どめに自生の槐の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約四百年を経てこの巨木に成長したものと伝えられる。
周囲に低い土塁のあとが見えるのは、信玄本陣を示す桝形陣形跡である。
- 永禄四年(一五六一)九月十日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。上杉謙信は紺糸絨の鎧に萌黄緞子の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生に跨がり戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのをみ、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。
この時の武田信玄は諏訪法性の兜、黒糸絨の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手にもち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。
公園内の散歩することもおススメです。
コメント
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