カテゴリー
安曇野市 観る

光城址(古峯神社)|光城山の頂上にある山城|安曇野市豊科

光城山の頂上にある、海野氏の一族、光氏によって築かれた山城。
ノロシを使い、連絡しあう役割もしていたようです。
本郭の中心部には火の守り神を祀る古峯神社があり、登山客などがお参りしていきます。

麓から歩いて登ることもできますが、車で山頂まで行くこともできます。
今回は光城山を車で登ってみるコースで行ってみます。

光城山を歩いて登るコースはこちらを・・・。

[googlemap lat=”36.318859696031005″ lng=”137.94227600097656″ align=”undefined” width=”575px” height=”300px” zoom=”12″ type=”G_NORMAL_MAP”]36.31886,137.942276[/googlemap]

頂上へと行ける道の入口

この看板だけが頼りです。細い道でわかりにくいかもしれません。

林道の道端には桜が満開

狭い道幅ですので、すれ違いに注意です。

頂上付近まで行くと、大きな地図があります。

現在地はこちら

この地図があるところを左折します。

ちなみにここから歩くと徒歩5分で山頂です。

一応駐車場はありますが、5台でいっぱいいっぱい。

桜の季節に駐車できればラッキーでしょう。
満車の場合は下から登るしかありません。

駐車場のある辺りはアカマツの林が広がっています。

林間広場(多目的生活ゾーン)という場所らしいです。

広場っぽくないし、多目的生活ゾーンって・・・ホームレス歓迎みたいな??
不思議な広場です。

光城址(古峯神社)

だいぶ年季が入った案内板です。

去年新しく設置された新しい案内板

おじさん熟読中・・・

光城跡

安曇野市内では規模の大きな山城で、鎌倉時代にこの地に来住した海野氏の一族、光氏によって戦乱の激しくなった戦国時代(十六世紀)に築かれたと考えられる。
犀川右岸丘陵上の尾根道南端を固めており、武田氏の松本平進攻に対しても、兵を配備し籠城したとみられる。しかし、天文二二年(一五五三)、刈谷城攻めに際し戦わずして落城した。その後、天正十年(一五八二)に松本城主となった小笠原貞慶によって修復されたと考えられる。

平成二十年十月二十九日  安曇野市教育委員会

これが光城址(古峯神社)です。

ボロい建物ですが、人気は上々↑↑

手水鉢は扇形をしてます。

神様からのお願い

火を祀る神社だけあって、火事には特別に注意している感じです。

梁には文字がいろいろと書かれています。

時代を感じる絵が掲げられていますが、こんな適当な管理で大丈夫でしょうか・・・?
劣化が心配です。

こんな山の上にある神社にも番地があるんですね~。

神社内にも説明がありました。

光城址と古峯神社のゆかり

この山頂にお城が築かれたのは遠く五百年余りの昔、戦国時代もまだ初めの頃、海野六郎幸元という武将がここに城を築いて自ら光之六郎幸元と名乗ったといわれている。
この海野氏の一族は、そのころ会田、刈谷原、田沢(上の山)、塔ノ原にそれぞれ城を築き、互いにノロシ等を使って連絡し合って栄えていたので、城内の最も高い所でノロシ台のあたりに火の守り神とされる此の古峯神社が祀られてきたものであろう。
やがて戦国時代の末頃、川中島の合戦が近づくや、武田信玄(晴信)の先鋒によって、天文二二年(一五五三年)三月、刈谷原城などとともに光の城も攻め落とされて武田方に従ったということである。

昭和六十三年四月 光南村古峯神社奉賛会

火の神様

手前にお賽銭箱があります。
登山客が多いので、結構入るらしいです。

登山日誌にひとことメッセージを。。。

でっこぼっこ♪ふれーんず♪ の たまご王子が見張り役。

光城山 登山日誌 思い出の箱

登山日誌だけでも数十冊はあるでしょうか。
すごい!!

山頂付近は平らな公園みたいになっています。
お花見におすすめです。

桜が咲く前にもかかわらず、たくさん人がいました。

桜が咲いていない時期は、“お山見” で・・・。

「光城址(古峯神社)|光城山の頂上にある山城|安曇野市豊科」への2件の返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。