三峰川の河川敷にある公園で、遊具や多目的広場、水遊びが出来る小川やマレットゴルフ場など子供からお年寄りまで楽しめます。整備も良くされていて常に利用者の方で賑わっている人気の公園です。また、三峰川サイクリング・ジョギングロードの起点にもなっています。
竜東線からの案内看板
竜東線(県道18号)から左折するところに案内看板があります。左折をする目印には右手にエネオスと虹のホール伊那があります。
入口への案内看板
竜東線を左折してから1km程進むと右手に案内看板があり、公園が見えてきます。
公園案内図
左下の注意書きに“この公園は、川の中です。サイレンがなったら安全なところへ避難してください。”とあります。
サイクリング・ジョギングロード案内図
この公園は三峰川サイクリング・ジョギングロードの起点になっています。
ローラースケートコース
この日は利用者はいませんでした。。。
すべり台
傾斜が緩やかなすべり台なので、小さな子供でも楽しめます。
遊具ドラゴン
伊那のシンボル!?のドラゴンの形をした遊具になっているようです。
マレットゴルフ場
冬も通年を通してできる芝の18ホールのMG場。利用料は無料です。
マレットゴルフ2番ホール
中央アルプスの空木岳や中岳の雪景色が展望できます。
この日も多くのおじいちゃんおばぁちゃんがプレーしていました。
バーベキューエリア
正式なバーベキューエリアではないかもしれませんが、ここでバーベキューをする方が多いです。
水難事故注意看板
事故防止のためにもルールを守って楽しむようにしましょう。
漂泊の俳人 井上井月
井月は文政五年(1822)越後(新潟県)長岡に生まれる。
天保十年(1839)頃、郷土を離れ、東北を回って江戸に出た(推測)、どこで俳諧や漢学など学んだか不明だが、その江戸で俳聖・芭蕉に心酔したのではないか。
その後、東海や関西地方を行脚したと思われる。信州へ足をとどめたのは、嘉永五年(1852)善光寺大勧吉村進の役人木鵞の母追悼集1枚刷に井月の「乾く間もなく秋くれぬ露の袖」の一句が載っている。安政五年(1858)中沢村高見(駒ヶ根市中沢)の、田村梅月が調整した「発句書抜帳」の中の一句に井月選出の印がある。したがってこの年かそれ以前に伊那へ足を伸ばしていたことが知れる。井月三十七才頃に当たる。それ以後、主として伊那の南部地域を行脚していた。文政三年(1863)高遠藩の重役、岡村菊叟を訪ね、井月がそれまで行脚の先々で集めた諸家の発句集の序文を乞うて、その年開版(出版)した。名づけて「越後獅子」といい、現存している。時に四十二才であった。以後、二年ばかり北信を行脚して再び伊那谷に戻り、伊那の各地で多くの俳友と風交を共にして、各地で奉額に揮豪したり歌仙(連句)を巻いたり、求めに応じて俳句を数多く書き残した。特に芭蕉への傾倒を一層深くして、芭蕉の名文と言われる「幻住庵記」を屏風などに好んで書き、現存しているだけでも十点余りに及んでいる。のち「井月全集」(下島勳・高津才次郎編)発刊にあたり芥川龍之介は跋文を寄せ「井月は時代に曳きずれれながらも古俳諧の大道は忘れなかった。集中に散見するの彼の俳句は、この間の消息を語るものである。しかも亦彼の書技は「幻住庵記」などに至ると入神と称するをも妨げない」と絶賛している。
井月は、一度や二度は生地へ帰りたいという願望もあったが伊那谷に骨を埋めることを覚悟、明治十八年(1885)「余波の水茎」を開版「古里に芋を掘て生涯を過さむより信濃路に佛の有がたさを慕はむにはしかじ…」と跋にしたため「落栗の座を定めるや窪溜り」の一句を結んでいる。この句の暗示どおり明治二十年の二月十六日(新暦では三月十日)伊那市美すず大田窪に六十六才の生涯を閉じ、同地区の塩原家墓地に埋葬された。
戒名「塩翁斎柳家井月居士」井月句碑
三峰川右岸
・稲妻や藻の下闇に魚の影(秋)
・明安き夜を日に継や水車(夏)
・菜の花に遠く見ゆるや山の雪(春)
・楽しみは浅瀬に深し蜆とり(春)
・除け合うて二人ぬれけり露の道(夏)三峰川左岸
・子供にはまたげぬ川や飛蛍(夏)
・手元から日の暮れ行くや凧(夏)
・若鮎の瀬に尻まくる子供かな(夏)
・子流に上る魚あり稲の花(秋)
・稲妻のひかりうち込夜網かな(秋)信州井月会
春日愚良子 識す
稲妻のひかりうち込夜網かな
三峰川の霞堤看板
霞堤とは、洪水時に河川が濁流でいっぱいになり、濁流の圧力で堤防が破壊・決壊しないように工夫された堤防のことです。
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